幻聴
こつ、こつ。
がら、がら。
靴音と、コンクリートの上で何かを引き摺る音が追ってくる。
「止めてくれ。誰か」
哀願するような譫言に騙されそうになる口を必死に両手で塞ぐ。
化物がやってくる。
叫び出してしまいたい気持ちを必死に堪えた。
「いないのか、誰か」
使われていない部屋の古びた洋箪笥の中で、傷だらけの足を抱えるように座って息を殺す。見つかってはいけない。それだけを考えることに徹する。
「誰でもいいんだ」
濃い血の匂いが漂ってくる。勝手にがたがた震える手足に恐怖を一層増幅される。理性で騙そうとしても、本能的に感じ取ってしまった恐怖は簡単に拭えない。
「止めてくれ、誰だっていい」
狂っているのは世界だったか、彼だったか、僕だったか。そんなことどうだっていい。
「この耳障りな音から逃れられるなら、何だって」
同じ施設で育った全員の悲鳴を聞いた。生きているのはおそらく自分だけだ。
「止めてくれ、止めてくれよ。誰かいないのか」
化物がやってくる音が次第に大きくなっていく。
「なあ、誰か。居たら返事をしてくれ。お願いがあるんだ。難しいことじゃないさ。この煩わしい音を止めてくれないか。僕は頭が悪いから、この音がどこで鳴っているのか見当もつかなくて」
突然この施設にやってきた化物は人の形をしていて、子どもの背丈ほどある巨大な鉈を持っていた。何かに取り憑かれたように鉈を振るいながら、上がる血飛沫を浴びても何の興味もなさそうにただ「止めてくれ」と言うだけだった。
「居るんだろう。なぁ」
熱に浮かされたように喋り続けているが、音程も音量もぐちゃぐちゃだ。こちらの言うことなど聞かない。いや、聞こえないの方が正しいのか。おそらくあの男は鼓膜を破いている。
割れた窓から吹き込んできた風で、かたり、と洋箪笥の扉が薄く開いた。
ぎ、という音が聞こえるくらい不気味に男の首が曲がる。
「・・・・・・あ」
男が扉に手をかける、蝶番を軋ませながら木製の扉が開いていく。
「ほら、いるじゃないか。どうして出てきてくれなかったんだ」
ぽた、ぽた。
「ああ、わかったぞ。お前か。お前なんだな、この忌々しい音を鳴らしているのは」
こちらを向いた巨大な鉈の切っ先から赤黒い液体が滴る。
「忌々しい。散々人を悩ませてその態度か。うるさいぞ。うるさい。うるさいうるさいうるさいうるさい。今止めてやる。止めてやるからな。うるさい。黙ってろ、黙れ」
がつ、ぐしゃ、ぐしゃ。
「・・・・・・おかしいな、止まらない」
ぐしゃ。
「誰か、誰かいないのか。はやく、はやく止めてくれ」
こつ、こつ。
がら、がら。
「鳴り止まないんだ、サイレンが」