← 一覧に戻る

恋/Sohbana


 歓びに乗り移られたように身体を突き動かされながら、僕は墓穴を掘っている。

 茹だるような昼間を乗り越え夕立に濡れる夏草の青い匂いの中、生暖かい空気を肺に送り込んでは吐き出して。汗でじっとり張り付いてくる制服さえ気にならないくらい、冗談みたいに幸せで。僕の心には確かに恋が巣食っていた。

__________


 現代文の授業が好きだった。夏場の水泳の直後にあれば尚更。

「悪心を抱いている、というのですが、誰もそんな、悪心を持っては居りませぬ」

 微かな塩素の匂いと淡い夏風が、教科書を読み上げる彼女の声と交じり合う。上手いというだけの理由で先生から毎度名指しで音読させられていた彼女からすると面白くなかったかもしれないが、プールで散々泳がされて知らない筋肉を酷使したあと、うとうとしながら彼女の声を聴いているだけの時間が好きだった。悪い王様を討つために親友を人質に疾走するなんてどんな話だよと思ったりもしたが別に何でもよかった。彼女の声をたくさん聞いていられることが何より幸せだった。

「脚速いんだね! 陸上部入ってよ!」

 星の類かと思ったら、そういう目をした彼女だった。

 頭の出来も素行もよく言ってもそこそこだったけれど、脚だけは速かった。色んな部活から声がかかった。勿論、全国的に名前が知れ渡っているようなわけでもない。高々、校内で「○○君って足速いよね~」と言われるくらいだ。体育会系の部活がそんなに強くないこの学校においては重宝されたけれど、それまでのことだった。

 彼女に褒められただけで萎びていたはずの心が笑えるくらいに躍って。そのまま陸上部に入った。マネージャーとして満足そうに笑っていた彼女は、一年生の頃に脚を故障して走れなくなっていた。

 悩みの種も禁断の果実も全て彼女だった。

 別々の人間である以上、全てを知るということはできない。

 涼やかな目元のせいでどこか冷ややかに見える彼女が我慢できずに小突きたくなるまで好きを晒してしまえば少しは本心で向き合ってもらえるだろうか。

 自分の色眼鏡のフレームの中で輝く彼女について都合のいいように処理をして、懸念は見えない振りをした。走っていれば余計なことは考えなくて済んだ。

 懸念が強くなるほど、振り切るように自分を追い込んだ。

 茹だるような暑さの中、走って走って、木陰で倒れた。

 ありえない量の花畑の幻覚を一瞬挟んで、タイツを履いた脚が視界に入って視線を上げる。

 キャラメル色のカーディガンを羽織った彼女が僕を見下ろしていた。

「大丈夫?」

「……何で」

「え?」

「……いや、何でも」

 鼓動だけが速くなればいい。短くて長い人生を、可能な限り彼女との時間で埋め尽くしてしまいたかった。

 好かれたかったから、校則を守るようになった。同じ服を着たかったから、同じ色のカーディガンを羽織るようになった。カーディガンとタイツで年中肌を隠している彼女が「よく転んでいたから痣や傷跡が目立って」、と誂えたみたいに言う度に、せめて過ごしやすいように夏なんて早く終わってしまえと思った。

 休憩時間に野球部の守備の手伝いをしていたその日、当たり所が良すぎて旧校舎の方にかっ飛ばしてしまった。陸上部の練習に戻るついでに拾ってくる、と旧校舎へ向かうと、立ち入り禁止のはずの旧理科準備室の窓から彼女が外を見ていた。生徒によってとんでもないことが繰り返されていた事件があってからというもの、その部屋に入ること自体一発アウト、停学と言われても仕方がないという噂があった。

 ボールなんてそっちのけで駆け出して、廊下側の割れた窓から中を覗く。

 珍しく制服を着崩した彼女がいて、おもむろに脚に向かって拳を振り上げたので、大きな音を立てて扉を開けた。

「あ、え」

 暑かったからだろうか。彼女の脚を初めて見た。 

「……違う、ちがうの、私、わたし」

 僕の思う通り、彼女は悪心を抱いているわけじゃなかった。

 脚に出来た真新しい痣を必死に隠しながら「治るのが怖いだけなの」、と、震える声で言った華奢な身体を咄嗟に抱き締めて、あやすように背中へ手を添える。

「大丈夫だよ」

 この世って不思議だ。こんなに好きな人のことでさえ、知らないことなんてたくさんある。

 人生はいつも高綱渡りで、一度でも足を踏み外したらおわり。

 彼女もきっと、たくさんの彼女を殺めてきたのだろう。

 擦り切れる心で一生を歩いていくために。

「僕しか見てない。だから大丈夫」

 薄い背中が抑え込まれた嗚咽と共に上下する。

 これからも、僕は君にだけ恋をしている。

___________

 桜の樹の下には屍体が埋まっている。

 そうでもなければ説明がつかない。

 燃え盛るような紅葉さえ、こんなに綺麗なのだから。