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ペトリコール


 にわか雨に降られた。

 泊まり業務を終え、やっとのことで家路についたというのに。雨脚はどんどん強くなって、急かされているような心地になった。折畳み傘を家に忘れてしまっていたけれど、駅までそんなに遠くもないし、わざわざ買うのも癪だ、と、無精したのがいけなかった。

 降っていたのは俗に言うゲリラ豪雨というやつで、あっという間にずぶ濡れになってしまったのだ。ただ、ずぶ濡れと言っても、まだ髪と上着が濡れているだけなので、すぐにどこかで雨宿りができれば取り返しのつかない事態は避けられそうだった。

 雨粒がアスファルトの上で跳ね回っているのを見ながら、雨宿りができそうなところを探した。世界はとっくに朝を迎えているはずだったけれど、べったりと濃い雨雲の影で夜が尾を引いているようだった。

 雨はあまり得意ではない。低気圧に弱い体質の影響で、雨が降ると気分が悪くなってしまう。しかも今日は徹夜というスパイス付きだからか、頭痛と耳鳴りがいつもより強い。気に入りの香水の匂いも流されてしまったみたいで悲しかった。

 街のネオンも消えた薄暗い朝の中、煌々と光を発するそれに気づく。あそこで雨が止むのを待とう、と、駆け足で光源に近づく間も、雨はぼたぼたと確かな重みを持って私の頭を叩いていた。

 ガラス張りの大きな長方形に入って扉を閉め、短く息をつく。酷い目に遭った。激しく叩きつけられる水滴がガラスの上をずるずる伝っていくのを他人事のように見つめる。滝の中かと錯覚してしまうくらいの雨音に、四方から鼓膜が殴られているみたいだった。

 明るい緑色の電話と、その脇に置かれた分厚い電話帳が視界に入る。電話ボックスなんていつぶりだろう。いや、そもそもこれまでの人生で、電話ボックスに入ったのはこれで何度目だろうか。きっと片手で数え切れてしまう。

 早く止まないかな、とガラス越しに空を見上げる。きっとフィクションの世界なら、ここで電話が鳴り始めるだろう。相手は謎の組織のオペレーターかもしれないし、別の世界線を生きる私かもしれない。メリーさんだって可能性も大いにある。けれどここはフィクションの世界ではないから、電話は鳴らない。

ジリリリリ。

ジリリリリ。

 冷えきったガラスに身体を預けながら、少しだけ、喧しい音を期待する。

ジリリリリ。

ジリリリリ。

 誰だっていい。何だっていい。

 雨音を劈いて、私を救ってほしい。

 心の躍るような非日常で。

ジリリリリ。

ジリリリリ。

 僅かに空いたガラス戸の隙間から、アスファルトに染みた雨の匂いが滲んでくる。悪酔いしたみたいに項垂れてみても、電話は鳴らない。

「……いつ止むんだろう」

 零れてしまった8文字は、強まる雨脚に踏まれて散らばった。