溺れながら息をする
久しぶりに会った向井田は、高校の頃と同じ柔和な笑みを浮かべていた。相変わらず、黙っていればただの爽やか王子様だ。
「このレイナ、宇宙で一番可愛いと思うんだよね」
黙っていればの話だが。
「ちょっと聞いてる?」
「聞いてる聞いてる」
「聞いてないときのやつじゃん、それ」
だってその写真見せてくるの何回目だよ、と言いそうになったのをぬるくなったコーヒーで腹の底に流し込んだ。
尚も嬉しそうに話し続ける向井田の端末にはあの頃より少し大人びたアイドルが映っている。昨年メジャーデビューを果たした彼女は、芸名をレイナから新藤玲奈に変えたらしい。向井田は会うたび彼女の話しかしないから、気付けば俺も彼女に詳しくなってしまった。
「や~、もうほんとに、存在が天才だよ」
とはいえ、彼女を想って心底幸せそうに笑っている向井田を見ると少し安心する。未遂ではあるが自殺を図るまで追い詰められていた向井田をここまで立ち直らせたんだから、新藤玲奈というアイドルは本物なのだろう。
「明日楽しみだなぁ」
緊急事態宣言だとか何だとかで、今年はイベントが軒並み中止になった。国によって感染症対策などの基準が打ち出され、世間がその正解に沿って歩み始めた頃、対策を万全に行った上でイベントを開催するという情報が出たらしい。やっと会えるんだと、向井田はずっと楽しみにしていた。
「楽しんで来いよ」
俺の言葉に、向井田は「うん」と笑った。
価値観や大切なものというのは、人によって違う。偶々多数派になったという事実は、少数派を蔑ろにする免罪符にはならない。方法も場所も用意されていて、法規的にも許されてはいるが、こんな世の中で、彼女に会いに行くという向井田はきっと少数派に属するのだろうと思う。
レイナ___新藤玲奈という存在は、向井田にとって命より大切だ。彼女に出会うことが出来たから、舞台上の彼女に心を救われたから生きていられる。病んでいると言われたら、その通りなんだと思うと向井田は言った。この感情を何て言えばいいのか分からないけれど、少なくとも健全ではないと。
いつからか、向井田は死にたいと言わなくなった。しかしそれは、希死念慮が消えたということと同義ではない。
「楽しみだなぁ、ほんとに」
高くて、深くて、遠い。
際限の無い感情に溺れながら、彼は必死に、息をしている。